英国に来ている。
今まで留学というものを避けて生きてきたが、働き始めれば長期にわたって海外に行くことは難しくなると思い、3週間の留学プログラムへの参加を決めた。
参加者は50人ほどで、中国・韓国籍の学生が数人ずついる他は、全員が日本人だ。ほとんどが20歳前後だが、ひとりだけ50歳過ぎの女性参加者がいる。
彼女は、今は日本で働いているものの、以前は長い間ヨーロッパで仕事をしていたという。何故このプログラムに参加しているかについては詳しく聞いていないが、若者しかいないであろう環境に飛び込む勇気と、年齢を重ねても衰えない向学心には驚かされる。
ヨーロッパに住んでいただけあって、彼女は授業では積極的に発言するし、もちろん英語力も高い。彼女には見習うべき点も多いが、どうしても受け入れられない部分もある。
彼女が使う「お隣の国」という言葉だ。
日本人学生同士で日本語で話しているとき、彼女は中国のことを「お隣の国」と表現する。
例えば食事中に観光の話題になったとき。「最近は日本に来る『お隣の国』の人が多すぎて鬱陶しい。少し数を制限できないものか」と言う。あるいは日本の産業の話題になったとき。「メイド・イン・ジャパンの製品でも、『お隣の国』の部品を使っていたら信用できない」と言う。
聞けば「お隣の国」という言葉を使う理由は、「中国人学生たちに感づかれないようにするため」だと言う。たとえ日本語で話していても、「中国」と言ってしまうと中国人学生に聞きとられてしまうかもしれないのだそうだ。
そのようなことを気にするのであれば、そもそも中国についてネガティブな発言をしなければ良いのではないかと思う。海外で働いた経験のある彼女ならば、公の場で不用意に特定の国を貶めるような発言をすることはスマートではないと知っているような気がするのだが、違うのだろうか。
彼女の攻撃は、中国という国家に対するものにとどまらない。
彼女は中国人学生らと一緒のグループで、最終日に向けてプレゼンの準備をしているのだが、そのことについて大きな不満を感じているらしい。「なぜ私が『お隣の国』の人に指示されながら作業をしなくちゃならないのか」と。
私が見る限り、中国人学生らはとても優秀だ。英語力が高く、幅広い知識を持ち、論理的思考力も卓越している。だから、彼らがグループ作業を率いるのは当然のように思える。
けれどもかの女史は、彼らが中国人だからという理由だけで、彼らから指示を受けることに反発する。
中国を見下し、忌み嫌う彼女の態度は、長い時間をかけて形成されたものなのだろう。
少し前までは中国の経済水準は低く、それゆえに教育や文化のレベルも低かった。しかし今や中国のGDPは日本の何倍にもなり、教育や文化の水準も向上している(文化については多くを知らないが)。
でも、きっと彼女は数十年前に抱いたイメージのまま中国を捉えていて、今でも中国という国とそこに住む人々を下に見る。
最近よく疑問に感じることがある。果たして人は長期間親しんだ価値観を変えられるのかということについてだ。
この数年で、日本では古い価値観を刷新しようとする動きがずいぶん広まってきたように思う。それは例えば、LGBTに対する偏見を取り除くことであったり、今まで当然のように横行してきたセクハラやパワハラを糾弾することであったり。
インターネット上では古い価値観の打破を主張する人が多いから、社会が変わったように感じる。しかし、中高年の人と話してみると、彼らの価値観は何ら変わっていないと気づかされることもある。そのたびに私は軽い絶望を覚える。
上には疑問と書いたが、実際には願いに近いかもしれない。人々が今までどっぷり浸かってきた価値観を変えることができれば、私にとって、あるいは誰かにとって、もう少し暮らしやすい社会になるはずだ。
けれども今回の経験は、この願いの実現が難しいことを改めて実感させられるものだった。
人口ピラミッドが逆三角形になりつつある日本では、マジョリティである高齢層が意見を変えなければ社会は変わらない。いつになったら、50歳過ぎの彼女は、そして日本の長老たちは、新しい見方や考えを受け入れてくれるのだろうか。
*本記事は寄稿されたものです