Ⅰ.はじめに
世間で活発な議論の対象となっている物事について、自分なりに何が正しいのか考えたいと願うのは当然であると思う。しかし、異なる意見を持つ人を叩き吊るし揚げたいという欲望が、健全で正確な思考を妨げてしまっている面もあると思う。また、影響力のある有名人と一般個人との間では、同一の行動をとっても得られる利益に差があるのは当然である。しかし、有名人の意見に一般個人も同調して、この一般個人の利益を縮小する行動をその個人自身がおこなってしまうのはよくあることである。
この文章では、知らない専門分野については中途半端な思考を捨ててしまい、自分と似た境遇の者に適切な思考と判断を委任することの意義について、拙いながらも書いてしまいたい。
Ⅱ.現代文明の繁栄と、個人の賢さについて
現代文明は、情報通信技術をはじめとして、万事いい感じに発展している。この発展は過去の歴史の積み重ねによるものであり、過去最大限に発達した社会を生きられることをうれしいなあって僕は思っている。その分、社会を構築するシステムが複雑になっていて、それぞれについての理論や技術について、専門家以外の人々は知らないまま、現代文明の恩恵を享受している。それらを知らないことや知ろうとしないことについては、必ずしも悪いことではない。船が浮かぶ理由を知らなくても船に乗れるし、ポップコーンに妖精が宿っていると信じていても火にかければポップコーンは弾けて膨らむ。原理を知らないまま便利なものを利用してきたのは、別に現代人だけではない。問題なのは、物事を知ることができる可能性を最大限に評価してしまい、実際には理解していないのに簡単に理解できるだろうと思ってしまうことである。
さきほどの船とポップコーンの例を検討する。通信インフラや教育環境が整っていない過去の時代の人にとっては、実験すれば分かるかもしれないが、これらの理由を簡単に知ることは困難である。しかし、現代社会で情報通信技術を活用できる人であれば、軽く調べて出てきた内容を疑うことなく知識として獲得することができる。この程度の解釈の分かれる余地のない物事であれば調べて現れた内容を信じても問題はないが、間違えたものや解釈の分かれうるものを知識として獲得した場合は賢くなったとは言えない。よって、このように現代文明の恩恵を受けることによって人は簡単に過去から積み重ねた知識に触れることができるが、現代人が賢くなったわけではなく賢くなれる機会が増しただけであり、現代に生きる個人の賢さは必ずしも過去よりも高いものではない私は思う。
Ⅲ.すべてを疑うには時間が足りない。
曖昧な物事や間違った物事に惑わされず、正しさを示すためには確かな知識に基づいたが必要である。しかし、確かな知識を得るのには多大な努力と時間が必要であり、また、それぞれの専門分野ごとに必要な知識は異なる。この世の全ての知識を得て、確固たる自信の下で全ての物事を判断することは誰にもできない。よって、知らない難解な知識を求められる分野においては、その分野に詳しい人に判断を委任する必要がある。
しかし、現代文明の恩恵を享受することで自分自身が賢くなったと誤認する人は、思考を放棄して他者に委任するという行為を行いたがらず中途半端な知識のもとで適切でない判断をする可能性が高いと思われる。調べれば、あるいは、専門家がかみ砕いて説明してくれれば、何でも分かる時代に私に判断できない事柄があるわけがないと思ってしまうのであろう。インターネット上で調べた場合と専門家がかみ砕いて説明した場合について、それぞれ検討する。
インターネット上で調べられる情報には、さきほど挙げた船とポップコーンの原理のような自明の物事から、(胡散臭い情報は論外としても、)意見の分かれ得る物事や、ある特定の前提の下で成り立つ物事など幅広く存在する。後者2つの物事については、本来、正しい知識の下で検討を行わなければいけないが、自明の物事のように受け入れてしまう可能性もある。理解しやすい自明の正しい知識を得た経験によって、全ての物事が理解しやすいかのように思えてしまう。
(主にテレビ上なので)専門家がかみ砕いて説明した場合の難点については、その専門家が全体ではなく自己の派閥の利益のために行動する可能性、分かりやすい説明をするために難解だが必要な物事を削る可能性、そもそも内容が間違えているが正しいかのような説明をする可能性などがあげられる。また、これらについて、テレビ嫌いのインターネット野郎どもは批判を行うが、彼らも同様の可能性を抱えている。
目に見えるものすべてが疑わしいが、自分自身ですべてを疑い適切な検討をするためには時間が足りないため、誰かに判断を委任しなければいけない。次に誰に委任すべきかを検討する。
Ⅳ.夢を見ずに自己の利益を考え、似た境遇の者に委任する。
夢を見ずに自己の利益を考え、似た境遇の者に委任するのが良いと思います。ここでいう似た境遇とは、職業、年齢、性別、生活様式、生活環境などの諸条件が似ていることを指すことにする。
夢を見るには素晴らしいことだとは思う。しかし、世間で活発な議論の対象になっている物事がなぜ話題になっているかと言えば、大半が、全ての人が幸せになれず誰かの利益を害さなければならない場面において、厄介な判断をせざるを得ないからである。そういった場面では夢をみて全ての人が幸せになれるかのような意見に耳を貸すべきではない。完璧な解答がない状態において、完璧かのように見える解答を示す輩の殆どが自己の利益のためだけに行動するペテン師だろう。そのペテン師が利益を得られる場合に自分自身も利益を得られるならば、ペテン師に同調するのはありだが、そのようなケースはあまりない。(もちろん、自分が犠牲になっても誰かが少しでも救われれば良いと考える人も中にはいるが、そういった人は既に犠牲になっているので考慮する必要はない。)
SNS上などで有名人が美しい言葉で素晴らしい理想を語った場合、それに同調したくなる気持ちは分かる。しかし、その有名人は、(たとえ悪意がなかったとしても、)私の境遇を知らないし私の幸せのために理想を語っているわけではなく、全体の僅かな利益とその人自身の多大な利益のために心地よい夢物語を紡ぎだす。自分と似た境遇の者であれば、その人が利益を得られる状況において、自分自身も利益を得られる可能性が高い。よって、彼が適切に物事について判断をするならば、同調する価値が十分にある。
以上から、世間で議論の対象になっている物事を判断するにあたって、夢を見ずに自己の利益のみを考え、信頼できる似た境遇の者の判断に同調するのが適切であると考えられる。
Ⅴ.おわりに
コロナコロナと世間が騒がしく、BBQや合奏練習すら出来ない。そんな環境でマイナスだったり過激だったりする思考に陥ってしまうことが多かったので、私自身の思考を整理するためにこの文章を書いた。
民衆が団結し声をあげるという行為は、悪の為政者に歯向かう美しい行為だと小説やミュージカルなどで描かれることがたまにある。けど、それは、民衆の行為が正しいという前提のもとで話が作られているだけである。民衆が団結すること自体に正しさは存在しない。扇動者は、民衆が団結すること自体が正しいと誤認している民衆を、利用しうる。美しい行為によって、素晴らしい物語にあなた自身も参加できると語りかける。充分な知識を持たなければ誰のどんな考えに同調すべきか分からない。中途半端な知識では不十分である。中途半端に考えるくらいなら、せめて自分の利益に重点を置いて、自分と似た境遇の者の考えに同調して、自分の行動によって自分の首を絞めないように気を付けるべきではないだろうか。そんなことを私は思っています。
当たり前のことを書いてしまったが、当たり前のことこそ解体して考え直さなければ、その重要さを忘れてしまう。なんにせよ、前回の就職活動への憎しみよりかは良いものであると、私は思う。