「微妙な速さで泳ぐ」

最近、運動不足解消のために市民プールに通うようになった。もっとも、しばらくすれば飽きるだろうから、「通うようになった」と断言するにはまだ早いのかも知れない。

市民プールの使用料は破格に安い。個人で、あれだけの施設と水と監視員その他諸々を用意することはできまい。しかし、誰でも利用できる市民プールなのだから、当然混雑する。混雑したプールにおいて、人は自由気ままに泳ぐことはできない。ふざけやがって、市民プール!私は、自分の泳ぎたいように泳いで、運動不足を解消したいのだ!

市民プールも何も考えていないわけではない。彼だって必死だ。利用者に少しでも心地よく市民プールを利用してもらおうと多少の策は打っている。

25m全6コースの利用目的ごとでの区分けである。具体的には、1コースが水中歩行用、2コースが往路一方通行水泳用、3コースが復路一方通行水泳用、4-6が自由遊泳用(4-6は団体利用になることもしばしばある。) となっている。2・3コースはさらに分かれ、コースの左側が速く泳ぐ用、右側が遅く泳ぐ用である。

この泳ぐ速さでの区分けが私を悩ませることになる。速いとはなんだ?遅いとはなんだ?

当然、25mを規定タイム以下で泳げれば速い、それ以上なら遅いというものではない。

この場合においての泳ぐ速さは絶対的なものでなく、周りと比較した相対的なものである。そして、その相対的な速さの判断は、コースの左側を泳ぐ意志のある各利用者に求められる。

コースの右側を泳ぐのに理由は必要ない。前方の利用者と距離が近くなれば、自分の泳ぐペースを落として距離を確保すればいいからである。

自分の意志でなくペースを落とすのはストレスになる。やはり、できる限り自分のペースで泳ぎ続けたい。前方に自分よりも遅い人がいるならば、できるかぎりコースの左側を泳ぎたい。しかし、前方の人が自分より遅いということだけで、コースの左側を泳げるわけではない。

私より先に右側を泳いでいる人が私より遅そうで、かつ、自分の泳ぎたいペースで泳いだ場合に前方の人を追い抜くと判断した場合において、私はコースの左側を選択して泳ぐ可能性は生まれる。あくまでも可能性が生まれるだけである。もし、私よりも後に泳ぎ始める人が、私よりも速いペースで泳ぐのだとしたら、話は変わる。

私より後に泳ぎ始める人が私より速く泳ぐ事で、左側のコースを泳ぐ私は、その人の邪魔になってしまうのである。そうしたならば、私に正義は存在しない。

なぜならば、右側のコースは遅く泳ぐ人のために存在して、左側のコースは速く泳ぐ人のために存在する。市民プールの正義に基づけば、左側で遅く泳ぐ人間は、規律を理解する知能のない愚か者か、あるいは、規律を破壊する極悪人なのである。

私は、コースの右側で泳いでいる人が邪魔になると判断し、コースの左側を泳ぎたいと思う。しかし、私より後に泳ぐ人は、コースの左側を泳ぐ私を、邪魔だと思う。そして、私は悪人になる。

私の願いは決して間違えているものではないはずである。ただ、規律の下で、個々の幸福を最大限にしようとするならば、私はコースの左側を泳ぐという願いを捨て去らねばならないのである。

で、あれば、私はどうすればいい。愚か者にも、極悪人にもなりたくない、けど、いい感じに泳いで運動不足を解消したい。

道は3つある。

1つ目は、常に誰よりも速く泳いで、コースの左側を選択し続けることである。

2つ目は、常にコースの右側を選択し、前方を泳いでいるひとに接触しないように、泳ぐペースを調節し続けることである。

3つ目は、基本的にはコースの右側を選択するが、他者の迷惑にならないと確信を持てる場合にのみ、コースの左側を選択することである。(自分が一般的に泳ぐのが速いと思うならば、この方法の中身は逆になり得る。)

1つ目の方法はもちろん現実的ではない。2つ目も、ある意味で極端である。自分さえ我慢し続ければいいという自己犠牲の精神に基づいたものであろうが、しかし、きっとストレスが溜まり、周りを逆恨みすることになってしまうだろう。よって、3つ目の方法が望ましいと思われる。今、まさに泳いでいる人、あるいは、これからすぐに泳ごうとする人の中で、自分はどれほどの速さの存在であるのかを考えて、泳ぐコースの場所を判断するのである。

極端に速いか、極端に遅いかであるならば、常に1つ目か2つ目の選択を選び続けてもストレスはたまらない。しかし、極端な存在というのは、最速と最遅の一人ずつしか存在しない。殆どすべての人は中間的な存在である。全体からみれば、速いほう、遅いほうという分類はできるのかもしれない。しかし、速い集団の中では遅い、遅い集団の中では速いというのは、よくあることである。

今までの話は、泳ぐ速さに限った話ではない。

私は、個人として、多くの面を持ちながら生活している。個人として生きているため、私が観測できる世界というのはごく小さなものである。多くの面を持って生きているため、それぞれの面で周りの人との優劣を比較できる。

その中のある1つの面が、周りの他者より優れているとして、なぜ誇ることができようか。逆に劣っていたとして、なぜ恥じる必要があるのだろうか。

それぞれの面において、自分の周りの他者と比較して自分の能力が、どの程度優れているか劣っているかを分析して、それに応じた適切な立ち回りをすれば良いのではないだろうか。

誰か一人が圧倒的に優れているわけでも劣っているわけでもない。また、誰もが過剰なストレスを抱えるべきではない。

ごった煮の世界で誰もが中途半端な存在として生きている。だから、自分と周りの他者の、良い面と悪い面の両面を認めて、自分にも他者にもストレスを与えないバランスの良い生き方を目指すべきなのではないだろうか。

P.N. 桂田はじめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です