特に興味関心がなくても、珍しいと聞くと飛びつきたくなってしまう。人間ってそういうものですよね。と、自嘲的に思いながらも、上野国立博物館の国宝展に行ってきました。
国立博物館の保有する全89点の国宝を、期間中に何度か展示品を変えながら、全て展示を行うという今回の国宝展。国立博物館150周年記念とのことなので、さぞ珍しいことなのだろうと、非常にミーハーな感想しか持てない。
しかし、興味をいだけば、行きたくなるが人の性。そして、思い立つのが、遅いのが、この私。
気が付いた時には、期間終了間際だし、取ろうとしても、会期終了までの全てのチケットが当然に売り切れている。が、ここで逆転チャンスのお知らせを聞く。会期延長である!チケット発売日をよく確認し、そして悲願であった予約を行うことができた。大きな満足感の中で、既に手段と目的は混濁している。
そもそも何がどのように展示されているかを理解しないまま、会場へ向かう。何か急いで予約したから、午前中のチケットを取ってしまったので、中々に眠い。なぜ、休日の午前中から行動しなければならないのだろう。いや、もっと言えば、平日の午前中だって行動はしたくない。とは言っても折角とったチケット、気分が乗らないくらいで行かないわけにはいかない。
ともあれ、会場へ着く。やはり人が多い。正直、それぞれにどの程度の価値があるのか私含めて殆どの人が理解していないだろうに、それでも、ありがたそうにひとつひとつの展示品を見ていく。
価値とはなんたるか、これは難しい問題である。しかし、国宝の価値という点では、後世に大きな影響を与えたものと解釈して、さほど外してはいないだろう。すなわち、ある時代において、革新的であったものや、技術の粋を集めたものなどである。これをミーハーな人間どもが一目見ただけで分かるのだろうか、いや、分かるはずがない。国宝だからと群れている奴らである。もちろん、私含めて。
真の価値を理解できるのは、積み重ねてきた者だけである。決して、物珍しさにひかれて集まったものではない。
そんなこんなで、展示物を見ていくが、作品解説の掲示や音声ガイドのおかげで、見るべき点を見ることができる。それになんとなく分かった気にはなる。この分かった気になるというのが、ある種の傲慢さの始まりでもあり、興味をいだくきっかけでもある。少なくとも必ずしも悪いことだけではない。
なんやかんやで展示を見終え、満足し、日本の歴史って長いし、いろんな人がいたんだなって思いました。展示の最後にあった博物館の4つの機能の掲示が印象に残ったけど、ここには書きません。なぜなら、既に忘れたし、ググって書くのはダサいからです。
慣れないものを人ごみの中で、見るのは非常に疲れるものだけど、折角来たので常設展も少し見る。まあ、空いている空いている。国宝に比べれば、格は落ちるんだろうけど、重要文化財程度ならたくさんある。高村の作った老猿をじっくり見れて、非常に満足しました。結構大きいのね。あと、写真だと顔と姿勢に目が行ってしまって、左手が重要なのを初めて知った。
博物館を後にし、沢山人がいる上野公園を突っ切った。なんか三陸のイベントをやっていたりだとか、大道芸人がいたりだとか、無邪気に走り回っている子供がいたりだとか、寒いのによく来るよなって思いながら、人が集まる場所を懐かしく微笑ましく通り抜けた。
いわゆる二郎系ラーメンを食べ、帰ってから何かしようと思ったけど、結局何もせずに昼寝をしてしまい、休日を終えた。