倫理や道徳、芸術などにおいて善いもの、真なるもの、美しいものを定義することは極めて難しい。おそらくそれらは人生における各々の価値判断と密接に相関していて、共通の真美善をお互いに了解することは非常に稀である。
あまり深く考えずとも、食の好みを考えると少し実感が持てる。野菜が全く食べられなかったり、そうめんが太いととてもいやだったり、パクチーだけは無理だったりとひとそれぞれ好みというのはあるものである。
食においては好き嫌いの相互作用はあまりなく、別に目の前の人がキノコを食べようが食べられまいが、自分にさしたる影響はない。食事会のセッティングで、目上の人が魚が無理などと言い出すとまたいろいろとめんどくさくなるが、しかしそれもまあ少しめんどくさくなるだけである。
しかし、他の物事においては、他人とこれらの真美善の価値観を共有できない場合には、少し困ったことになることがある。例えば、昼休みの昔外遊びがあまり好きではなく、教室で本を読んでいると良く担任に追い出され、「グランドで遊びなさい」と言われたものである。自他の価値観が異なるときに割を食うのは立場が弱い方であるから、これはたまったものではない。価値観の対立は方々で見られる。
しかし、もし世界共通の、全人類が疑いをはさまず正しいと信じることがあるならばこれらの問題は解決される。が、そんなものはない。万人が信じる絶対的な価値観は、これがあると信じると信じないも自由だが、おそらくそんなものはない。これを仮定するのは万物の超越者を仮定することと同義である。
最近、人生の価値判断を考えるにあたって、万人に共通な「正解」があるのではないかと思い悩んでいたが、そもそも社会に共通な真美善はなく、各々の真美善のすり合わせが社会の一時的な真美善として表れているだけなのだと思い至った。
そうだとしても、少なくとも自分にだけ「正解」な真美善への態度があるのだともう少し悩んでいたが、それらは自分の中で公理として定義するしかなく、それ自体への根拠を持たないことに気が付き、また少しもやもやしている。
例えば、経験から基づくなにか楽しいことや美しいことは感情の直観でしかなく、また本質的に正しいと暗に思っていることでも、これまでの人生でいつ刷り込まれたものかわからない。もし人間が生まれながらにそうした真美善を持っているとしても、それらが万人で一致しない以上そのようなユニバーサルな所与の価値観は存在しないことになる。つまり自分の真美善の価値観の根拠は、盲目的な価値観への信頼でしかなく、これを根拠と呼んでいいのかはわからない。
しかし正解がないとぼんやり分かった以上、これらの価値判断は生活の中でその都度、具体例に立脚して行っていくのが適当な気がする。何か一貫した指針があれば価値判断の労力が大きく節約でき、また人生もより遠くまで到達できるような気がしていたが、社会にも、個人にも価値判断の「正解」はない。
思うに、個人の人生や社会の構造、世界のありようの定義をして演繹的に価値観を人生に適用するのではなく、日々の生活から泥臭く時に間違いながら決して正解のない自分なりの価値判断を都度行い、帰納的に根拠のない自分なりの真美善を醸成するしかないのだ。
そしておそらく、それらの醸成から目を背け、一時的な社会の真美善への価値観に自分を委ねる行為は、同じ根拠のない価値観でも大きな違いがある。
根拠も正解もないと知りながらも、自分の感情や経験を振り返り、価値判断の手綱を握ったまま人生を送りたいと感じる。そのうえで他人の真美善とすり合わせを図り、共通の真美善を了解する過程は、例えばこのように文章を共有するところから始まる。
いつか読み返したら恥ずかしくなるような文章を記録しておくことも、わずかながらでも自分や他人の人生の助けになると、深夜に文章を書くとそう思ってしまう。
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