他者に利用されたくない、と思う。
しかし、反面自ら他者に貢献していると感じるときは、言いようのない充足感を得られることがある。
報酬のない労働に取り組むか否かの選択を迫られたとき、ある状況下では、自分は搾取されていると感じる。他人の利益のためになぜ奴隷のような扱いを受けねばならないのか。選択権があれば、そのようなことは断じてしたくない。選択権がない時(断ることに対する不利益と、引き受けることによる心理的肉体的負担を天秤にかけ、前者が十分大きい時を便宜的に選択権がないと定義すると)、状況を受け入れはするものの、どうやって手を抜こうか、楽をしようか、いつ反旗を翻してやろうか、と考えてしまう。
努力が大事だ。人としてまっとうに生きる。真面目に。いつか報われる。これは教育である。研修としてあなたに必要なものだ。搾取される状況において、このようなスローガン、主張は、こき使う側の都合の良い論理である、と私は受け取る。
繰り返し行われるものは、個人のなかで習慣になり、社会の中では慣習になる。(文化といってよいのか?慣習と文化の違いは再考)習慣とは、思考のプロセスを簡略化し、多くの場合ではスキップして、行動につながる、また行動中も思考をさしはさまない様式であると考えると、これらの搾取は習慣化したときその反発を免れ、習慣化された人々によって(必ずしもこきつかう側ではない)維持される。また、共同体思想によって、新たな参加者は染め上げられる。新たな参加者はまた、初めは反発を抱きながらも習慣化する。積極的な習慣でなくとも、まあしょうがない、こんなものだと折り合いをつける消極的習慣によって「利用されること」になじむ。
習慣化されない人は駆逐される。
習慣が取り払われるのは、より大きな力をもった共同体に干渉された時か、共同体内部で新しい習慣が以前の習慣を打ち破った時が想定される。これは数の問題か?(ほかの場合もある?数の問題ではない?権力の問題のときもあるが、権力とはいかに多くの人を殺せる力を持つかという気もする。現代日本では物理的に人に危害を加える権力より、社会的制裁を下すといった意味が強いか。)
共同体の中で習慣が分裂した際には、塗り替わるという場合と、共同体そのものが習慣をもって分裂する場合がある。
よって、私たちがああ他者に利用されたくないと思う時取り得る選択肢は
1.利用されない(引き受けない)
この場合は、引き受けないことによる不利益を被ることを覚悟せねばならないが、少なくとも利用されたということにはならないのではないか。昇進、学位、共同体内での結びつき、またそれらが金銭や安全に結びついているとき、これらを放棄する覚悟があるか?そもそも引き受けないという選択がとれる程度であればとっくに取っているし、とれないから困っているのだ、とするとあまり個の選択は現実的ではない。
習慣になじまない人も尊重するのだ、という集団以外では生き残れないし、仮に駆逐されなかったとしても、地位の低下や周囲との軋轢に悩むことになるか。
1.1利用されず、集団を去る
結末1 新たな共同体に行く、もしくは立ち上げる、一人で生きる。
1.2利用されず、習慣を塗り替える
結末2 手段は問わないが、新たな習慣を立ち上げ、過去の習慣を否定する。スカッとしそうではあるが、ではどのように?勝ち目のある戦いならする価値があるかもしれない。具体的な事例については検討。
1.3利用されず、新たな習慣で共同体を分割する
結末3 1.2と1.3の合成か。仲間で元の集団を抜ける。
2.利用される
2.1習慣化されない
これは毎回心に負担をかけるが、消極的にさえも、習慣化されないという選択肢である。習慣化されたものに対して毎回疑問を抱き、反発し、心は屈しないとするものの、行動としては結果的に利用されている。
結末4 美徳に生きたと誇るか、心を病むか、1.1, 2, 3へと派生すると考える。
2.2 習慣化される
いつしか疑問を感じなくなるが、過去の自分がみたら嘆き悲しむことになるか。また、新たな人員対する布教者としての機能も果たす。こき使う側からすると都合が良い。ただし、自分の心理的負担は少なくとも減る。いつしか利用されていいるという実感もなくなる。
結末5 疑問自体が消滅する。
3 利用する側にまわる
反則のような気がするが、とりえる選択肢。厳密にいえば1.1, 2, 3がうまくいった時からの派生か。ただ、完全な利用者側というのは存在しえない点と鑑みると、問題解決にはならない。生きていくうえで多かれ少なかれ誰しも利用者になり、被利用者にもなる。ここでは、被利用者としての側面の問題を考えているのであって、利用者となれば万事解決といった主張は採用できない。ただし、自己の利用者としての割合を増やすことで問題は薄まるか。
結末6 利用者側の割合を増やし問題を薄める
いろいろと悩むより、取り得る選択を分類、比較検討し、その都度考え判断するしかない。また、ほとんど社会で揉まれていない今の段階では、現実の問題として(実行可能な選択肢として十分考慮したか)とらえきれていない甘い側面がある。
さて、もう一つの面について
しかし、反面自ら他者に貢献していると感じるときは、言いようのない充足感を得られることがある。
結果的に行動が同じであっても、自分が自らやっているのだと思える時には、反発は感じず、むしろ満ち足りた気持ちになることが多い。ただし、決して結末5の延長上にあるものではない(と信じたい)。
どれだけ疑っても、これは他者の意志ではなく自分の意志で、他者に利用されているという実感と事実がない時、こき使われているという心理的反発はなくなる。
このような状況が、利用者の手によって巧妙に作られている時(錯覚に陥らされている)には注意する必要があるが、現段階の自分の観測範囲内で自分の意志だと思えるのであれば(結末5の延長上ではなく)、先の問題、反発からは一応距離を取れる。
結末6の延長上にもないということに注意。利用されてないという実感も、さらに利用しているという実感があってもならない。どちらかがあってはならない。
また、こうした自分の意志と行動に他者からの報酬を求める行為は、結果として利用につながるか。
他者の意志でない自分の意志を見つけることが大事である。(言葉を媒介にしている時点で他者が介在するが、そこは自分が主体だと錯覚できればそれでよい)
真の芸術に生きるものは、(芸術家という意味ではなく、例えば報酬がなくても、スーパーのレジ打ちを一生したい、決して他人に利用されているのではくこれは自分の意志だ、と思える時そのものは真の芸術に生きていると考える)結末1~6に分類されない。結末7?
今の自分にとって、仕事に対する姿勢は、2.2の結末5となりそうであるが、(生きていくには定期収入が必要である)、また学問をするにあたっても心の底から自分の意志とは言えず(2.2の結末へ向かうために、なぜか学問をしている)。。。
にもかかわらず結末7 を目指すから悩むのである。
定義されていない語句を多用してしまった。自分にとっての結末7 は何か(普遍的な結末7はないが)
自分の人生をはたから眺めているからこんなことを考えるのだ。自己を生きる、没頭者にならなければ(しかしそれは妄信?)。
とりあえず結末7が未だわからず、1, 2, 3, 4, 6が現実的でないなら現段階では5に甘んじて、ぐだぐだ言わずに目の前の作業をこなすしかない(というのは利用者の論理として便利だが)。
考えることと行動することの比率が、自らの重みづけが前者に偏りすぎている。つべこべ言わずに行動しなければ。現段階では5につなげるためのむなしい行動だが、6に行くかもしれないし(これは価値の大小という点で6の方が優れているとは言わないが、すくなくとも心理的には救われそう)ひょっとしたら7につながるかもれない。(ますます利用者の論理として便利である。こうして自分で整理をつけることが、利用しようとする者たちへの屈伏になるのではないか。)
以上のことは、誰でも陥り得る悩みなのだ、と信じたくて書いた。