完璧なアボカド

 私とアボカドの付き合いはそこまで長くないが、アボカドは幾度となく私を裏切ってきた。しかし、ついに完璧なアボカドに巡り会えたので、暫くそのことについて考えようと思う。

 アボカドの選び方は、底が柔らかくなっているものを選びましょうということしか知らないが、選別方法としては簡単な部類である。目が輝いている魚や、みずみずしいネギを選ぶよりもよっぽど具体的である。自身の目が濁っているかどうか考えさせられることもない。にもかかわらず、私たちは(おそらく皆さんも)日常手に入る食材の中では、かなり真剣にアボカドを選ぶ。

 間違ったアボカドを選んでしまっては、アボカドにありつけないのだ。固く、青臭さを残したアボカドは食べられたものではない。たまに冷蔵庫で熟成させるなど意味のわからないことを聞くが、世の中には思ったより予知能力者がいるのだろうか。アボカドは食べたくなった時に買っているのであって、3日後の私はアボカドなどきっと食べたくはない。

 棚をひっくり返す勢いでレタスの選別をしている人を見て、「ちょっとやめてくれよ」とは思うことがあるけれど、アボカドを触って選んでいる人には少なくとも私は思わない。目で見るだけで食べごろのアボカドを見分けられるほど前世で徳を積んだ人間など、きっと今世では富豪のネコになっているに違いないのだ。

 期待は、あった。いつもと違うスーパーの少し高いアボカドだった。2〜3百円だっただろうか。一つひとつ網が掛けられていた。触ってみると理想的な柔らかさで、もしかしたら、とは思っていた。中身が黒ければお取替えしますと掲示がされており、お取替えされるアボカドの選定は、誰が仰せつかるのだろうと思いながら帰宅した。

 包丁を入れ2つに割ると、そこには黒くもなく、固くもないアボカドがあった。種を取ったあと、中身はスプーンですくう必要もなく、皮と分離していたので綺麗に丸々実を手に入れることができた。抵抗なく、包丁を引くとすっと切れ目が入る。サイコロ状にした後、減塩の塩昆布とごま油をかけ、合わせる。

 一連の流れを思い出しながら、世の中に完璧なアボカドがあるとすれば、これがそれだと思いながら食べきった。

 ここで言う私の感じたアボカドの完璧性とは、食べるという目的に沿って、まさにどんぴしゃりなタイミングで選び取られてきたということである。生き馬の目を抜くように取り出されるこの種の「完璧」以外の完璧についても、それは例えば積み上げた先の頂点という意味での完璧だったり、へこみのなさという意味の、形而上でのかたちをも含めた完璧だったりが存在するように思う。

 その中のどのような意味でも、完璧なアボカドと相対した際の人間のぼろぼろさ、ということを考えそうになる。ただおそらく幸せに暮らすために必要なのは、3日後に食べごろになるアボカドを心待ちにしたり、黒くなったアボカドを取り替えに行ったりする、そういうアボカドまわりの不完全な暮らし方の方なのだ。

 とても美味しかった。    

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