ことあるごとに人生の意味について考えてきた。そのようなものはない、という数多のそれらしい主張も、どこか自分で料理したわけではないので、どこかまるっとは飲み込めずにいた。ただ、以前夜中に勢いで書き付けたメモがこの非生産的な行いについて、どうにも陳腐であちらこちらに取っ散らかってはいるが、どうやら一年近く実感を持ったまま了解させにかかってきているので、何処かで餌を食べて大きくなってくれやしないかと、ネットに放流することにした。殆どの人には全く必要のない類の文章だと理解はしているが、同じようなことを考える人が思いの他いるような気もしている。
そのようなものはないのではないか。「コップの意味」はコップという文字が指す、実体としての一般的に液体を入れる物体、であるが、そこには重要性や価値については何ら言及がない。つまり、意味という言葉を誤って使用してしまっているのではないか。重要性ということであれば比較対象があり、相対的な形容として取り扱うべき事柄であるし、価値ということであれば、ある観点では金銭に還元した時の多寡として取り扱うべき事柄である。
言葉を正しく使っていないから、議論が進まないのではないか。人生という言葉が指すのは人の生き方、生きること。個人あるいは人間一般を対象としたものということでしかない。そこにはただ行為を一般化した言葉としての生があるのみ。ここには食も仕事も、余暇も哀楽も全てひっくるめてどう行動しているか、何を考えているか、またはその未来過去、行動群をただ示しているだけである。意味とは、何が何を指し示しているか、ディレクションでしかないのではないか。
こうした時、適切に言葉を用いていないという点で、「ぴよぴよにゃーん」のような”意味”を持たない言葉のガレキにとらわれているのと何ら変わりはない。
人生の意味、人生の指し示すところという高尚なことで悩んでいるふりをして理性を、浅ましくも保とうとしている。だがその実は次に何を考えどう行動すべきかについての思索行為が、ただ横たわっているだけである。道に佇んでと止まり、どちらに行けばよいかわからない迷子だと言うことを、「人生の意味は」と言っているのに過ぎない。方向の正解を外部から与えてほしい。正解が欲しいだけ。正解とは何か。そこにたどり着くと何があるのか。この世の理を超越した人などいないではないか。幸福も脳内の化学物質が引き起こしている幻に過ぎない。
手探りで仮説を立てて進んでいくしかない。なぜ、すぐに~には意味がないからやる必要がないなどと言ってすべてを無価値に帰すのだろうか。無価値とは何の指標の下でゼロなのだろうか。すべてにおいて無価値などというものがあれば、それは哲学上のゼロの発見ではないか。大きな価値がある(翻って見ると多かれ少なかれ万物に価値があるのだ)。いますべきなのは、行動と思索の「とりまとめ」だけである。
任意の点でどうありたいかの目標をたて、行動を積み上げる。この繰り返しをしていつか死ぬ。その過程で、無限の時間をは生きられない人と人とが分かり合えるすばらしさ、人間が対面することのできる幸福や五感に感謝するしかない(生きるという行為において、その行為の根源を問いただせば、このような事象それ自体を信仰するしかないという小さな消極性も同時に存在する)。
何のために、なぜと問い詰める前に、好奇心のまま進みたいならそのまま進めばよい。そうでないならばそれは目標からまた考えるのみではないか。この時、目標は意味に紐づけて問いただしてはならない。何のためにするのかは、先に自分が決めて行動を連れて来る。その先に、嘗て人生の意味と呼びたかったものが漂ってくるのではないか。