先日、行ったことがない住宅地に用事があり、電車駅から離れた場所に行った。
グーグルマップでみると、駅から1.7km。歩けない距離ではないが、しかし、バスもある。これは乗るべき。行きは、表示された時刻どおりのバスで、問題なく目的地に到着した。
帰りである。
用事を終え、降りたバス停の向かい側を見ると、ちょうどバスが出てしまったところであった。改めてグーグルマップで時刻表を確認すると、次のまでは15分程度ある。これだと、駅まで歩いても大した時間の差はない。しかし、小雨が降り始め、暗くなった見知らぬ土地を歩くのも億劫だ。やむを得ないと、バスを待つことに決めた。
と思ったのも束の間、5分も待たないうちにバスが来る。
しかし、やけに小ぶりである。小さな違和感。ドアが開く。料金箱付近には「ICカード使えません」の表示が。
先客が乗る間に、すぐさま小銭入れを確認するが、ぴったりはない。
募る不安、バスは独自ルールが多いので何が起きてもおかしくはない。
バスで紙幣を使う際は、両替を行おうとしないと、ややこしいことが起きるのではないかと、ひどく曖昧な記憶が呼び戻される。
運賃を払うべき順番が来る。とっさに「1000円札って使えますっけ?」と聞いてみる。「使えますよ。」との若そうな運転手のそっけない回答。
しかし、実はまだ財布を確認していない。たぶん1000円札は財布に入っているはずだが、確証はない。
まさか、バスに乗るのに現金が必要であるとは思っていなかったからである。
人は、予期せぬ事態に備えようとはしない。
が、それを悟られるわけにはいかない。滑らかな動作で財布から紙幣を出すと、それは1000円札であった。事なきを得た瞬間である。
紙幣は機械に吸い込まれたのち、8枚の硬貨となり、重みを増して私の手元に戻ってきた。
バスの中は、私の思うものよりもずっと狭く、そして、色味のない掲示物に記載されていた運行会社名も見知らぬものであった。若干の居心地の悪さと、どこか懐かしさを感じながら、私は電車駅に着いた。
帰宅した後調べると、そのバスはいわゆるコミュニティバスなるもので、順路も、私が乗った範囲では、一般的な路線バスと被っていたらしい。全17席なので、狭くて当然であるし、運行会社によってはICカードにも対応させていないらしい。
都内で主要公共交通機関に乗る際は交通系ICカードさえあれば大丈夫というのが、自発的に電車に乗るようになってからの私の常識である。
しかし、幼き日を思い返せば、親が電車に乗る際にプリペイドカードを使っていた気がする。5000円という金額を非常に大きなものに感じていて、そして、250円程度のおまけをくれる鉄道会社はなんて太っ腹なんだろうと思っていたような気がする。
交通系ICカードなんてものは、ここ20年程度で生まれたものであるし、このまま日本社会が維持されていくのであれば、おそらくはすぐに失われるものではないだろう。
しかし、仮に、衰退が始まれば、現金やチケット払いに戻るだろう。
逆に、更なる発展が進めば、ICカードよりも便利なものが現れるだろう。
ICカードは永遠ではない、いずれは失われるのだ。
そんないずれ来たるべき日に、私は「昔は、Suicaってカードがあって、それさえあれば電車でもバスでも乗れたんだ。近頃は、うんぬんかんぬんで(以下略)」なんて情けないことを、きっと言うのであろう。
いつか、私は、今の私が嫌っている向上心も適応力もない存在になる。
その日を少しでも遅くするために、社会の変化に目を向けて適応すべきものには適応したい。
あるいは、来たるべき日に良識的に対応できるように、謙虚な存在になりたい。