一人では何をもできない人間が何人協力したところで、何もできない集団しか形成されず、そのような集団は大体同調圧力が大きい。ともに何もできない安心感に浸り、自我の希釈の末、やがて世の中の風景として生を終える。
しかし翻ってみると、人が、集団が、何かを成すとは一体何を成したときにそう呼ばれるのか。成されたものの価値の尺度、尺度の主人は。そうして外部に判断を帰した先にあるのは、理解を付すとすれば、成したはずのそれの価値は世の中の風景に立脚するしかないと悟り、風景に一人佇む自らの虚しさを嘆く未来ではないか。
あるいは成しうる事柄の根拠を内部に判断を帰した先にある、自己の盲信に立脚した自己評価、ものの価値、世界への制裁は、ますます自他の対立を深め、かえって風景に認められん、溶け込まんがための焦燥を掻き立てるのではないか。
風景とはなんと価値のあるものだろうか。