最近、動画配信サイトで雨の音を探して聴くようになった。不規則なリズム、それでいて淡々とした音を、服を濡らすわけでもなく、靴下に水たまりを吸わせるわけでもなく、雨の良いところだけ掬って聴いていると沈然としてくる。
雨が雪になった時、音はなくなる。寒い土地で育ったというわけではないから、降雪と音を紐づけた印象的な記憶はない。雪の音は探したことがない。代わりに雪が降ると空を見上げた思い出はある。ある種反射的な動作として覚えこんでいるのかもしれない。雨の時は傘をさしているのでそうはいかないが、雪はよく見上げる。
この前も雪を見上げる機会があった。旧友たちとの久々の旅行であった。東北の温泉宿に泊まり、露天風呂からさらさらとした雪を見上げた。穏やかな時間だった。温泉から出てしばらく過ごすと夕食時となった。会場の襖を引くと、50人は悠々と席を共にできるであろう畳の大広間が現れ、10人と少しのために中央に1列分だけテーブルが置かれ、その上に御馳走が並んでいた。踏み入ってそのまま目を横に遣ると、朱色の幕が降りた舞台が備えられていた。
嘗て同じ面々で舞台を用いて何度も愉快な出し物をしたからであろうか、食事会場にそれがあるのを見るや、何人か指をさし、顔が綻んでいた。各々その脳裡にある幕が開かれ、珠玉のパフォーマンスが次々と再生されたのであろう。料理は勿論美味しかったがそれよりも印象的だったのは、別の旅行では取り立てて気にも留めないであろう閉じられた舞台から、過去から畳み込まれた時間が滾々と湧き出したということであった。
特定の人間と長く関わると、この舞台と種を一にするものがそこかしこに立ち現れる。淡々とした毎日ではあるが誰一人同じ人生をは歩まない中で、一時足元の俗世を忘れ同じものに指をさし笑う声からは、人生の良いところだけ掬った響きがした。