かつての就活への憎しみ

Ⅰ はじめに

 今はそうでもないけど、大学時代の私は就職活動を憎んでいた。薄れつつある憎しみを今一度書き起こすことで、当時からどれほど考え方が変わったかを確認したい。

Ⅱ 就職活動の気に入らなかった点について

1 就職活動における無責任な希望の提示について

 就職活動において、しばしば組織は志望者に対して多くの組織が希望的な夢物語を語る。志望者は、その組織に属すことを望む限り、自発的にその素晴らしき夢物語を信じなければならない。


 日本においては職業選択の自由が存在し、原則として個人の自由意思が尊重されるため、組織が個人にその組織に属することを強制することはできないことが要因である。


 仮に、組織が、個人にその組織に属することを強制することができれば、属することが決定している個人に対して、必要以上の夢物語を語る必要はなく、相応の現実を説明することだけで事足りる。なぜならば、夢物語を語らずとも組織の運営に必要な数の人材を確実に確保することができるからである。


 しかし、個人に職業選択の自由がある以上、組織は自らの組織をよりよいものにするために素晴らしき夢物語を語り、多くの志望者を集め、その中から優秀な人材を選抜する作業が必要となる。必ずしも優秀な人材を得る必要があるわけではないが、優秀な人材を得られる可能性があるならば、優秀な人材を求めるのが当然の流れである。 

 このような流れが加速することで、就職活動において本来不要な手間が増えているように感じられる。


 組織にとっては、素晴らしき夢物語を作成すること、叶えられもしない夢物語を信じた愚かな志望者を丁寧に軽くあしらうこと、夢物語を叶えられる可能性のある志望者を丁寧に判断することなどである。


 志望者にとっては、多数の夢物語の裏に隠された真意を探すこと、僅かにでも可能性があれば何度裏切られようとも信じ続けなければならないことなどである。


 初めから全てが決まっていれば簡単に諦めることができるのに、下手な希望があるから誰もが必要以上に疲労する。

2 企業の採用活動における面接について

 組織の構成員を選抜するにあたって面接試験はよく行われる。特に企業の採用活動であれば、ほぼ必須である。この面接試験のことを、私は不得意とすると同時に嫌っていた。


 組織として優秀な人材を確保したいのは当然であるので、面接試験を通して優秀と推測できる人材を選抜することになんら不満はない。私が不満に思っていたのは、志望者が面接試験のために自発的に自らの生き方を変更しているかのように振舞わなければならないことと、面接官が面接の対象者を評価できると思い込んでいることである。

ⅰ 面接のために自らの生き方を変更することについて

 面接官から良い評価を得るために、志望者は自分が組織にとって好ましい人間であることを示さなければならない。例えば、組織の理念に共感し組織の安定と発展に自らの人生を懸けることを誓ったり、そこまでいかなくとも、自分が円滑な組織活動に貢献できる人間であることを示したりである。中には元から組織の考え方と個人の意思が偶然一致しており、自分の内なる思考を面接官に提示するだけで面接から良い評価を得ることができる人間もいるだろう。しかし、そのような人間はごく少数である。大半の志望者が、自らの考えを組織の考えに寄せるか、あるいは、自らの考えが組織の考えと合致したかのようにふるまうことになるだろう。当然である。


 だが、やり方が気にくわない。志望者の生き方の変更という重大な行為が、実質的には組織による圧力によってなされるにも関わらず、志望者の自発的な意思によって行われているという点を私は看過することができなかった。

ⅱ 面接官が面接の対象者を評価できると思い込んでいることについて

 面接官は、多くの志望者と面接し彼女ら彼らを評価することになる。基準は組織によって異なるが、どの組織であっても組織の利益に貢献しうる人間に良い評価を与える。しかし、良い評価を与えられた人間が、組織に入った後にどの程度組織の利益に貢献したかを確認するのは困難である。組織の利益に貢献したかどうか確認するためには、組織の利益への貢献度を示す指標を用意しなければならないとともに、長い時間を待たなければならないからである。しかし、その確認できる時期を待つまでにも新たな志望者を面接し評価することになる。


 基本的に人は同じ作業を繰り返すことでその作業に対して自信を持つようになる。実際は適切な評価ができているか不明であるのに面接で他者を評価することに自信のある面接官が現れ、その面接官が自信を持って志望者を評価することが多くあると考えられる。


 私は、志望者たる自分自身も不確かな存在であるが、なぜ同じく不確かな存在である面接官に評価されなければならないのかと不満を持っていた。

Ⅲ 上記Ⅱに対する現在考えられる批判

1 就職活動における無責任な希望の提示について

 希望を持たずして、何が組織か、何が人間か。外側に虚栄を張って後から内側を詰めていく方式でも良いのではないか。可能性があるならば、せめて初めのうちだけでも、その可能性を信じても良いはずだ。

2 企業の採用活動における面接について

ⅰ 面接のために自らの生き方を変更することについて

 自分がより良い環境を持つ組織で労働したいのならば、自分がその組織に見合う人間であるかのように振舞うのは当然であろう。魂まで売る必要はないが、魂を売ったかのように振舞う必要はある。

ⅱ 面接官が面接の対象者を評価できると思い込んでいることについて

 組織が適切な人材採用をできない可能性はあるが、志望者がする心配ではない。

Ⅳ 終わりに

 不要なことを深く考えるのは無駄であると最近よく思っている。もちろん直感的な行動だけで生活するのは愚か者だけである。しかし、個人の生活において個人が考えなければならない最低限度のことが、その人自身とその周りの人が楽に安全に安心して生活を送り続けることであることを忘れてしまうことがよくある。そして、本来考えなくて良いことを考えることに過剰な労力をつかったり、情報伝達技術を通して得た不要な考えに感化されて不要な行動をとってしまったりすることがあり得る。大学時代の私に関しては、不要な行動をとるというよりも必要な行動をとらなかったが、似たようなものである。


 無駄なことを考えるのは非常に楽しい行為である。しかし、無駄であることに違いはない。まずは、自分がしなければならないことをしたうえで、余暇の娯楽として生活に不要な無駄なことを考える行為をしたいと思っている。

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