改めて文章を書く。

 文字を並べるというのは、さほど難しい行為ではない。特に紙とペンでなく、キーボードを用いるのであれば。しかし、文字を並べた成果である文章を作るのは難しい。はたして、その要因とは。

 まず、第一に文法である。これは重要であって、重要でない。正確な文法をもって書かなければならない文章には、大抵面白みは必要ない。そして、面白みがない文章を作らなければならない場面は、大抵が仕事の場面である。仕事であれば、文句を言わずにやるべきだ。それで、食い扶持を稼ぐのだから、甘えるべきでない。反面、面白みが求められる文章には、必ずしも正しい文法は必要ない。読みやすく、面白ければよい。もちろん、あまりにも通常の文法からかけ離れている文章は論外であるが、それには読みやすさも面白さも存在し得ない。(詩は必ずしも文章でないので、破綻した文法の良い詩は存在する。)

 第二に、内容。これも重要であって、重要でない。ただ、ものごとを書くだけであれば、目に映るものや、日ごろ考えていることなど、いくらでも題材がある。朝飲んだコーヒーのことも題材になるし、社会への恨みつらみも題材になる。もちろん、読んだ人が面白いと思うか、また、書き続けると内容が反復し得ることなどが問題となり得る。しかし、前者については、ただ文章を作るという面においては、些末な問題である。また、後者については、同じ文章を複数回書き続けることができるならば、大した記憶に基づいたもので、ある種の能力であり、それはそれで充分に認められ得る。そして、それができるのであれば、あえて同じ表現を避けることも可能であろう。
 毎日、朝にコーヒーを飲んだ話を書くとしても、味の感じ方の違いや、体調、昨日起きたことや今日起こりうること、つけていたテレビの内容などは毎回異なる。同じ場面・状況であっても、全てが重複しうることはあり得ない。そして、仮にある特定の日の出来事を反復して書くとしても、目を向ける場所や文字を並べる順番によって出来上がる文章は全く異なるものとなる。

 第三に、プライド。これはとても重要。
 文章とは、表現の一種であり、内面を外部にさらけ出した成果である。自己表現が、おそるべき行為であるのは、改めて書くまでもないだろうが、簡潔に記す。自分では新たな表現かと思っていても、周りからはありふれていたり稚拙であったりなど、そう思われることはよくあり、それを恐れる。しかし、実際には、他者の感想・感情は観測できないので、思われるかもしれない、思われたかもしれないという、抽象的なおそれのほうが大きくなる。先にあげた、文法や内容が、文章を作成することを困難にすることの要因になるとしたら、このプライドこそがその根底に存在する。

 第四に、やるき。これもとても重要。
 やろうと思わなければ、何もできやしない。とまあ、こんな感じで。結局、大した事ができやしないのに偉そうに口だけを出したい自分がいるから、文章が書けなくなる。自分が他者に口出しをしたいから、自分が他者に口出しをされることを恐れる。非常にしょうもない。

 元来、文章の作成に限らず、自己の表現というのは、心身の成長と暇つぶしのための、望ましい行動である。できることをして、他者を見て、自分と他者を比べて、自分と他者を高める。そうあればいいのに、自分では何もせずに、他者をけなすことに精一杯になるから、自分では何もできなくなり、面白みもなくなる。
 インターネット滅びないかな。

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