現代思想の教科書(石田, 2010)を読んだが、背景知識が乏しく、2割ほども理解に及ばなかった。この本は「自らの思考によって世界を基礎づける」ことを、15のテーマに沿って指南することを目的としている。専門でない、ある分野の書物に通底する文脈を習得するまでには長い時間がかかるが、しかし完全に理解せずとも常に新しい思考のヒントを与えてくれる。ラカンの人間の欲望構造と、ブルデューの文化の再生産についての記述は非常に面白かった。
ラカンもブルデューも初見であるため、その思想を正しく捉えられている気配すらないが、ひとまず世の見方の道具として拾えた錯覚には至った。ひとまず人間の欲望構造についてのメモを記す。
人間の欲望について
生きていると、何かをしたいと考えることがある。何かをしたい時、生存に必要である場合とそうでない場合がある。食事や睡眠は万人に必要だが、天気の子を観たいと思う時、確かに観たいと思っているのは確からしいが、特段それが生存に影響するわけではないし、さらに日常生活で困ることすらない。利点も、空を見上げて気候に付与できる 物語としての意味を 1つ余分に獲得できることくらいである。
ここで、ある種の欲望はどこから湧いてくるのか、そもそも欲望とは何かを考える。結論を引用すると、欲望成立のメカニズムは下記のようにある。
1.「欲望」とは意味実現の欲望である。
2.「意味」は記号の差異のシステムにおいてのみ実現する。
3. 記号のシステムは「他者の次元」を前提とせざるを得ない。
4. 欲望の主体は「他者の場」において成立する「光景」を通して表象される。
現代思想の教科書, p148 (石田, 2010).
要は欲望を規定する際に言葉を使うが、その言葉は社会の中で規定されているため、欲望は他者の存在を媒介としている。さらに他者を主体である私の欲望の鏡として使用することで初めて私が世に示される。また翻ってみると、他者の欲望、その欲望のもつ意味が自己に投影され、知らず知らずのうちに自己の欲望として意味づけられているということだ。
本当だろうか。
天気の子を観たいと思う。この欲望はどんな意味実現を代表しているだろうか。面白そう。前から新海さんの映画を観ていて、面白いと知っている。面白いとは何か。感情が動かされる。不快ではない。見た後少し気分が明るくなる。人生において、と時間軸を長くとると意味は薄れてしまうが、しかし週末の一日、日曜日に映画を観る意味。リフレッシュだったり映画の内容で人と話せたり、またさらに純粋にきれいだな音楽があってるななどそれ自体に内包された価値に触れることに、自分が評価を置いているということだったりと、それなりにある。
これらの面白い、明るい、リフレッシュ、きれい、などの意味は記号である言葉によって定義されている。自然言語は人間の社会活動の中で生まれたもので、思考、記述のツールであると当時に、人間の共通認識は何かというものを具現化したものである。このとき、天気の子を面白いと思っているのは私だが、面白いという概念は他者とのすり合わせの上で生まれた共有できる概念であるため、私が天気の子を面白いと思う時、また同時に他者が面白いと思うであろう天気の子が浮かび上がる。そもそも映画産業は観客が面白いと思うであろう物を作りだそうとする営みの中で発展している。
また、天気の子を観たい私の欲望は、社会で評価されている映画という認識、また、他にも面白いと思うであろう多数の人、映像美を評価する多数の人々の存在と共にある。天気の子見たい私は、この社会の中で天気の子を観ることによって他者に投影され像を結ぶ。
いささか強引なような気もする。他者の存在を無視したとき、他者によって規定される言語が意味を持たなくなり、欲望も規定できなくなるのか。
今これから死ぬまで部屋の中に一人で閉じ込められるとして、外界と接触しなくなった時、言葉は成立せず、よって記号によって意味を規定できなくなるのか。それまで他者と接し言語を獲得した後、その言語が自己対話にのみ用いられる時、その対話に意味はあるか。
まずその部屋で天気の子が見られるなら、たぶん観たいと思うのではないかと思う。他者の生産物をその部屋に持ち込める場合、疑似的な他者と社会を作り上げることができる。本と映画と、楽器などそれらのものがあれば寂しくはあるが、一応生きる意味を失わずに数年は生きていけそうな気もする。外界と接触を断ってどの程度で人が壊れてしまうかについて研究はあるのだろうか。
他者の生産物を持ち込めない場合を考える。それは完全な一人なのか。まず他者との関係で獲得した記憶や言語、思想などを捨てない限り一人とは言えない。純粋に一人になることは極めて難しい。しかしこの場合は自分が創造者として、おそらく日記をつけたりすることで何とか言語は意味を持つ。時間的に切り離された昨日の自分を、他者として規定することで何とか社会が成立しているのだろうか。
そして生まれてからこの一人の部屋に閉じ込められ、 完全なひとりとなっている状態を仮定したとき、そこに欲望はあるのだろうか。
確かにだんだんと欲望が薄くなっていく、意味を失っていく感覚は想像できる。欲望における他者の存在はあながち無視できない。
プロセスを再度見る。
1の「欲望とは意味実現の欲望である」とは、欲望とは「自分の生活に意味を作り出したい」ということだと仮定したことを意味する。もちろんそうでない欲望もあるのではと思ったが、睡眠についてひとは何故寝たいと思うのかを問うても、それは生存に必要であるし、そもそも答えが出ようが出まいが人は寝る。この「答えが出ようが出まいが行動は同じであるから考える意味はない」というのはある種思考の放棄であり、規定された行動以外を模索する際の手掛かりを失うため受け入れるには抵抗があるが、しかしひとまず意味実現に関わる欲望について扱うと前提を置く。
個人的にはこの前提が少し受け入れがたかった。楽器を吹いたり、天気の子を観るのに、別に意味実現の欲望だと思ったことは一度もない。しかし、誰しもことあるごとに人生に物語やシナリオを求めたい欲望は、多かれ少なかれ抱いたことがあるに違いない。おそらくここで指す意味実現の欲望とは、もう少し大きい枠組みの欲望であるように思う。 おそらく特定の職業を目指したり、金銭的豊かさを求めるのは、自分の人生である種の物語を実現したいという欲望に従属するという意味では、確かに欲望は意味実現の欲望といえる。
また、ある種今週の意味実現の欲望などど切り分けて考えれば、確かに意味実現かなとあてはまる例の方が多い気もする。日常の些末な欲求に意味実現なるたいそうな思想を抱いたことはないが、今週何したら楽しいかなあ、ということと置き換えると、一週間というある時間において、楽しいという意味を追求していることになるのだろうか。ある種の自らが認識していない意味があるか、そもそも欲求ではなく単なる習慣として根づいているものになっているから欲求の枠組みで考察するのが適切ではないのかはまだ整理できていない。これは今後の宿題である。
2の「意味は記号の差異のシステムにおいてのみ実現する」部分はソシュールの思想を理解する必要があるが、正直全くわからない。しかし、ここでは記号を言語と読み替えて、差異を規定するには2つ以上の物事が必要であることに注目すると、それとなく意味をつかむことができる。
言語において、意味が差異のシステムにおいて実現するというのは、「リンゴ」という言葉がリンゴとリンゴ以外を切り分けるという点で意味を実現している、ということである。例えば、人間とリンゴしかない世界において、リンゴという単語は、「人間でないもの」という意味しか持たない。 もう少し考えると、食物はリンゴしかないため、リンゴという単語は「食べ物」という意味を獲得している。もしかしたら「武器」としての意味も獲得しているかもしれない。 我々が一般にリンゴという時、あの概念としての赤く丸い物体を思い浮かべるが、それはバナナでもなくセロリでもなく郵便局でもなく……という他の物事から切り分けた結果として意味を獲得しているということである。
これは実際に存在する物と対応づかない記号、言葉で考えるともう少し混乱しにくい。 3.記号のシステムは「他者の次元」を前提とせざるを得ない、とも一緒に考えると、例えば「華麗」という時、何がどうなっているときに華麗なのかは定義が難しい。しかし「華麗」という語は存在し、ある程度共通の認識を得ることができる。「華麗」という語は 華麗でない状態との区別によって浮き彫りにされた<華麗>という意味を持っている。さらにこの区別は自分以外の他者が共通に持っているからこそ、「華麗」という言葉は他者に通じる。そもそも言語の意味は他者との社会的な枠組みの中で規定されて初めて意味として効力を持つ。
ここまでの流れは、欲望とは意味を実現することであり、意味は記号の差異が担っている。さらにその記号のシステムは他者とのかかわりの中で成立している、ということである。ここで重要なことは、欲望を規定するとき、意味を規定し、記号の差異が意味を規定し、他者が記号を規定しているため、自分だけでは欲望を規定できず、欲望の規定には必ず他者がかかわるということだ。
4.欲望の主体は「他者の場」において成立する「光景」を通して表象される、ということについて考える。私という主体はまず欲望を抱く。意味を実現しようとし、そして意味は記号の助けを借りて思い浮かべられる。記号は他者へと開かれており、つまりどういう欲望を抱いたかは社会作り上げた記号システムによって映し出される。本の中では、生まれたばかりの子供が鏡を通じて自己像を形成していく例が挙げられ、自己の欲望が他者という鏡を通じて像を結ぶアナロジーが展開される。この時、自分の抱く欲望は、他者との関係の中で規定される。
あらゆる広告や有名人のライフスタイルを見て、欲望が喚起される。欲望を喚起されるとは、生活の意味を喚起されているということで、その意味は記号によって規定される。記号システムは他者が担っているから必ず欲望には他者が入りこむ。言い換えれば自分で決めた、自分がそう思っているということでも、あまねく他者の存在を排除することはできない。広告というのは他者の場において成立する光景を例示し、広める作業であるから、まさしく欲望のメカニズムを衝いている。
こうしてみると広告というものには非常に慎重になる必要がある。すなはち、欲望は自分のみでは制御しきれていないのである。他者が社会においてこんな意味どう?と示した時、初めて自分の中に欲望が生まれる余地が生じる。自分で選別しているように思える価値なども、その選別の基準はこれまでの人生の中で他者との関係で築いたものいすぎず、1000の意味を与えられればおそらく少なくとも1つは自分の中に共鳴して喚起される欲望があるのではないか。
一時期マンションポエムを馬鹿にしていたが、世の中はマンションポエムにあふれているし、さらにそのポエムによって映し出される何かを欲する私に気づいてしまう。価値を創造するマンション、この都市の伝統を受け継ぎ未来を俯瞰する、などのチラシを見て笑えても、やはり人は他者を鏡とし影響を受け、iPhoneを買うし、天気の子を観る。
しかし他者からの影響を避け、隠遁の世を送ったとして、その薄れた欲望がより上位であるかどうか判断できるような価値判断の基準は、いまだ持ち合わせていないし、どんな意味実現をするのが良いのかも未だ評価できない。