1.
終電まで、あと少し。夜の大江戸線ホームは、朝の混雑が嘘のように静かだった。人の波がすっかり引いた地下鉄の空間には、ひんやりとした空気が漂っている。構内の照明は朝と同じはずなのに、時間帯のせいかどこか色褪せて見えた。ベンチに腰を下ろしスマホを手に取る。
通知は、特になし。この頃は来ていたとしてもショップの広告か、光回線勧誘業者の不在着信。聞いてもないのにお知らせしてくるような情報は、大抵ろくでもない。ふと、向かいのベンチに人が座っているのが目に入った。
黒いコートを着た男だった。年齢はよくわからない。30代か、もう少し上かもしれない。肩を少し落とし、何かを考えるように視線を足元へ落としている。私と同じように終電を待っているのだろうか。それとも、ただここで時間を潰しているのか。駅のスピーカーから、次の電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。
電車が来るまで、あと5分。私はスマホをポケットにしまい、ぼんやりと向かいの男を見つめていた。すると、男がふいに視線を上げ、こちらを見た。目が合った。数秒の沈黙。気まずさを感じて視線をそらそうとしたとき、男がぽつりと呟いた。
「……静かですね」
私は驚いた。こんな時間に、知らない人に声をかけられるとは思っていなかった。
「そうですね」
それだけ答えると、男は小さく頷いた。電車の走る音が遠くから響いてくる。
「大江戸線って、なんだか特別な感じがしませんか」男がそう言った。
「特別、ですか?」
「地下が深いせいか、ここにいると現実の世界と少し距離がある気がするんです」
私は改めて周囲を見渡した。確かに、大江戸線の駅は他の路線よりもずっと地下にある。階段を何度も降り、長いエスカレーターを経て、ようやくたどり着く場所。このホームにいると、地上の世界が遠く感じられる。
「わかる気がします」私はそう答えた。
男は少し笑った。
「ですよね」
その声は、どこか安心したようにも聞こえた。
電車がホームに滑り込んできた。ブレーキの音が静かな空間に響く。男は立ち上がり、私もそれに続く。ドアが開き、冷たい空気が流れ込む。私は乗り込む前に、もう一度男の方を見た。
「お疲れさまでした」
そう言ってみると、男は少し驚いたような顔をして、「……あなたも」と答えた。ドアが閉まる。
電車がゆっくりと動き出し、ホームが後ろへと流れていった。私は座席に腰を下ろし、窓に映る自分の姿を見つめた。さっきの会話は、ほんの数分の出来事だった。でも、なぜかずっと前からこの人を知っているような気がした。
2.
電車の振動が体に染みる。窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めながら、さっきの男の言葉を思い出していた。
「ここにいると、現実の世界と少し距離がある気がする」
地下深くにある大江戸線のホームは、確かにそんな場所かもしれない。地上の喧騒が遠ざかり、まるで時間が少しだけ止まっているような気がする。
終電に乗る人は少ない。車内には、私のほかに数人が座っているだけだった。誰もが静かに、各々の時間を過ごしている。私はポケットからスマホを取り出し、画面を開いた。やはり何か特別な連絡があるわけではない。
さっきの男が、どこまで行くのかは分からなかった。それどころか、どんな人なのかも分からない。でも、不思議と印象に残る会話だった。単なる一言二言ではなく、確かに「話した」気がする。まるで、大江戸線の深い地下の空気がそうさせたかのように。
電車が次の駅に着くと、乗客が一人、また一人と降りていく。私は車窓から外を眺める。地下鉄のホームはどこも似ているようで、少しずつ違う。自分の降りる駅まで、あと3駅。ふと、誰かの気配を感じた。向かいの座席に、さっきの男が座っていた。私は驚いて、思わず顔を上げた。彼もこちらを見ていた。少しの沈黙があった。
「また会いましたね」彼がそう言った。
「そうですね」私は苦笑しながら答えた。
こんなことがあるだろうか。さっきのホームで、偶然隣に座った見知らぬ人。それが終電の車内で、再び向かいに座る。彼はどこに降りるのだろうか。それとも、ただ時間を潰すためにこの電車に乗っているのだろうか。
「このまま、どこまでも行けそうな気がしません?」彼がぽつりと呟いた。
「終点まで、ですか?」
「うん。終点まで行って、また折り返して戻ってくる。そんな夜があってもいい気がする」
「……確かに」
私は窓の外を眺めながら、小さく頷いた。
終電の電車に乗るとき、いつも感じる不思議な感覚がある。このままどこまでも乗っていけるのではないか。あるいは、降りた駅から見知らぬ街へと歩いて行けるのではないか。けれど、実際にはそうしない。自分の降りるべき駅で降り、決められた帰り道を歩く。
「終点まで行くと、何か変わるんでしょうか」
私がそう聞くと、彼は少し笑った。
「どうでしょうね。でも、たぶん何も変わらない」
「じゃあ、行く意味はないんですか?」
彼は窓の外に目を向けた。
「変わらないことを確かめるために行くのかもしれません」
電車が私の降りる駅に近づいてきた。そろそろ立ち上がらないといけない。
「私は、ここで降ります」そう告げると、彼は小さく頷いた。
「お疲れさまでした」
「あなたも」
私は電車がホームに滑り込むのを見つめながら、言葉を返した。
扉が開く。私は電車を降り、振り返る。彼は、まだ席に座ったままだった。私は歩き出した。振り返らずに、そのまま改札へと向かった。地下から地上へと続く長いエスカレーターを上ると、ひんやりとした夜の風が頬をなでた。このまま帰るのだろうか。それとも、どこかへ歩いて行こうか。少しだけ、迷った。
3.
エスカレーターを上り改札を抜けると、夜の風が頬をかすめた。地上に出ると、さっきまでいた地下の世界が遠くに感じられる。大江戸線のホームのひんやりとした空気、蛍光灯の無機質な光。すべてが、今いる場所とは違う次元の出来事のように思えた。
私は歩き出した。いつもの帰り道。終電で帰宅するときの静かな道のり。しかし、今夜はいつもと少しだけ違う気がする。頭の片隅に、さっきの男の言葉が残っていた。「終点まで行くと、何か変わるんでしょうか」
それは、彼の問いだったのか。それとも、私自身の心のどこかでくすぶっていたものなのか。道中コンビニに立ち寄る。
店内は静かで、レジの店員が無表情で客を捌いていた。私はホットコーヒーを買い、店を出た。カップを両手で包む。温かさがじんわりと指に伝わる。
「変わらないことを確かめるために行くのかもしれません」
彼はそう言った。本当にそうだろうか。変わらないことを確かめるために、終点まで行く?でも、もしそこで何かが変わってしまったら?
私は立ち止まる。歩道の先には、夜道が静かに続いていた。信号が青から赤へと変わる。
ここで、帰るべきか、それともどこかへ行くべきか。選択肢があることに、今さら気づく。このまま帰れば、また何も変わらない夜になる。しかし、もし今、別の道を選んだら。そう思うと、急に足が軽くなった。
私は、来た道を引き返した。駅へ戻る。改札を抜け、再び地下へと降りる。昼間とは違う、ひっそりとした地下鉄の空間。長いエスカレーターを降りながら、ふと考えた。
私は何をしているのだろう。終電を降りたばかりなのに、また駅へ戻るなんて。けれど、確かめてみたくなった。終点まで行くと、何があるのか。変わらないものがそこにあるのか。それとも、変わる何かがあるのか。
私はホームに立つ。電車が来る気配はない。しかし、ここにいれば、いずれまた電車はやってくる。そのとき、誰が乗っているのかは分からない。もしかしたら、さっきの男がまたそこにいるかもしれない。もしかしたら、誰もいないかもしれない。それでも、私は待つことにした。目の前の線路が、どこかへ続いていることだけは確かだった。
4.
私はホームのベンチに座り、電車を待っていた。壁の時計は、終電の時刻を指している。しかし、こんな時間の駅には、時間というものがそもそも存在しないように思える。時間が流れているのか、それとも停滞しているのか、それさえも曖昧だった。
なぜ私はここに戻ってきたのだろう。コーヒーカップはすっかり冷えていた。中身を飲み干すわけでもなく、ただ両手で握りしめている。誰もいないホーム。私は線路の奥を見つめる。この線路は、果たして本当に終点へと続いているのだろうか?
私は、終点というものがどこかで消えてしまう可能性について考えていた。例えば、ある地点を超えた瞬間に、物理的な空間が解体される。あるいは、終点に到着した途端、私の存在がすっぽりと抜け落ちる。そんなことが起こったとしても、不思議ではない気がした。
なぜなら、ここは大江戸線のホームなのだから。
大江戸線は、いつも何かが妙だ。構造が複雑すぎる。あまりにも地下深くにある。路線の形すら、螺旋状で奇妙に歪んでいる。このまま乗って行ったら、私はどこにたどり着くのだろうか。私は、しばらくそうした思索に耽った。しかし、どれも明確な答えにはならなかった。
電車がホームに滑り込んできた。扉が開くと、私はすぐに乗り込んだ。車内はがらんとしていた。誰もいないのかと思ったが、ふと目を向けると、車両の端の席に一人、誰かが座っていた。あの男だった。
黒いコートを着たまま、静かに窓の外を眺めている。彼がここにいることに、私は驚かなかった。むしろ、彼は最初からここにいるべきだったような気がした。
私は、彼の向かいの席に座った。
「また会いましたね」彼は静かにそう言った。
私は頷いた。
「終点まで行くんですか?」
彼は少し考えてから、こう言った。
「そうですね。たぶん」
「たぶん?」
「終点が、どこなのか分からないんです」
私は、その言葉を反芻した。
「終点がどこなのか、分からない?」
「終点って、そもそも本当にあるんでしょうか」
私は何かを答えようとしたが、適当な言葉が見つからなかった。電車はゆっくりと走る。車窓の外には、何もない闇が広がっていた。
地下鉄に乗っているのだから、窓の外にはトンネルの壁があるはずだ。しかし、そこにはただ漆黒の闇が広がっている。電車がどこを走っているのか、分からなくなった。駅のアナウンスもない。どこかの駅で止まっているのか、それともただ闇の中を進んでいるのか。私は、少しだけ不安になった。
「この電車、本当に終点へ行くんでしょうか」
私がそう尋ねると、彼はゆっくりと首を傾げた。
「それは、あなたが決めることかもしれません」
私は目を覚ました。そこは、自分のベッドの上だった。薄暗い部屋の中、私はぼんやりと天井を見つめた。
大江戸線のホームは?
終電の電車は?
あの男は?
すべてが、どこかへ消えていた。私はスマホを手に取り、時間を確認した。午前3時。
枕元には、飲みかけのコーヒーカップが置かれていた。まだほんのりと温かさが残っている。私はベッドから起き上がり、窓の外を眺めた。夜の街は静かだった。信号が青に変わる。それを見ながら、私はふと思う。
私は、本当に帰ってきたのだろうか。