マラソンでは、行程をより速く行くことが正義であるが、散歩ではそうではない。また、1 kmの散歩でも10 kmの散歩でも優劣があるとは思えないから、おそらく距離も“散歩の正義”にはかかわっていない。
客観指標がないというのは時に救いでもあり、罪でもある。今日の自分の散歩と、古今東西あまねくすべての老若男女との散歩を比べ、順位付けをすることはこれまでも、そしてこれからもない。つまり、今の自分がおさんぽレベル1なのか、28なのかはたまた90なのか、知る余地もないし、そもそもおさんぽレベルは存在しない。
散歩の途中で黒ホッピーを買ったからすごいというわけでもないし、なんかよさそうな居酒屋をみつけても良いし、見つからなくても散歩が台無しになるというわけでもない。
物事の相似、類推には慎重になる必要があるが-例えば物理学を人生哲学に応用するというように-おそらく散歩を人生に例えるのは悪い話ではない。お散歩と違って人生には客観指標、もしくはそれと関連があると思われるいくつかのことがらが想定されているような気もするが、根源的な人生の客観指標などない。
どれだけ長く生きようが別に人生の価値に差などない(という、生存年数を指標として考慮しないというこれもひとつの人生方針であるのかもしれないが)し、北海道に生まれるより沖縄に生まれたほうが幸福というわけでもない、と思う。
しかし時に自然に、または恣意的に、場合により経済や宗教のため、人生は“客観指標”を持つ。Facebookやインスタでより多くいいねが付く投稿ができる人生。経済的に豊かな人生。煩悩を排した人生。配偶者の有無や友達の数、今週末の予定があるか。
独立して主観的に自分の人生を自由に評価しようとしても、そもそも自分の価値判断の基準など普通に生きていればこれまでかかわった人々が持っていた基準の反映でしかない。他人の、社会が自分に結んだ像としてのかりそめの価値判断基準に信頼をおくとしても、その先に何かはあるのか。
散歩の目的地などないし、入手すべき物品などもない。では人生も。ほんとうに?
お金はたくさん欲しいし、周囲のひとからいいねと思われる人生も送りたい。何か楽しい予定が沢山あった方が充実している気がする。立ち戻って考えれば、着の身着のまま散歩をするより、10万くらいもって、iphone片手に迷子にならないように、できるだけ楽しいこととめぐり逢いながら、そんな散歩の方が上位の散歩なのでは。いいねが沢山つく散歩!
憎むべきか、これは社会に振り回された散歩なのか。社会が自己に結んだ価値観。では自分の中に、振り回されないように価値観を規定できるか。では、できるだけ遠くに行ける散歩が良い散歩である、とする。よさそうな古書店をみても入らず、湖のほとりでひとやすみすることもないが、私はもう迷わないのだ!
としていきついた先には何もないが、とりあえず自分の価値観を規定してその中で散歩の価値を最大化したから良いではないか。良いのか。その価値観には納得しているか。途中でタピオカを飲んでる人や、アヒルボートを漕いで楽しんでいる人はうらやましくないか。良い散歩だったのか。
では、何も考えずいつも社会の価値観を反映した散歩をするとどうか。なんか楽しく幸せだ!ほんとうに?
自分には何かを我慢してでも成し遂げる大きな仕事があったのではないか。京都のラーメン屋を全部回るとか、旧街道を全部歩くとか。流されるままでよかったのか。
しかし、客観指標の定まらない、そしてそれを反映する自分の価値観も定まらないことに対する救いは、最後になって振り返るとなんでも肯定することが可能な点である。
楽器演奏をしているが、演奏会のあとはいつも「いい演奏会だった!」となる。本当にそう思っているときもあれば、そうでないときもある。しかし悪いものだったと思ったことはない。中学生の時、止まりそうなセントアンソニーを吹いたことでさえ、いまでは良い演奏会である。
あーいい散歩だった。変なことを考えず、買ってきた黒ホッピーを飲めばよいのである。