カーテンは定期的に洗濯するものらしい。さて、しかし本当だろうか。丁寧な暮らしの知恵に乏しくあらゆる所有物が年月の経過に伴い相応の劣化をしていく中、私はこの程の真偽について判定するための一定の方針にたどり着かねば、あるいは一生において常にまだ洗っていないカーテンと向き合いながら、「このカーテンは購入時は黒色であって今も黒色であるが、その黒色の由来するところはいったい何割何分がこの灰色くすんだ人生に染め上げられたものだろうか」と考え込み、おちおちベランダにも出られなくなってしまう。
しかしカーテンを洗濯する気はない。これは、おそらく過剰なメンテナンスである。きっとカーテンを洗濯し始めると、本棚が著者五十音順もしくは出版社別で整理されていないことに気をもみ始め、1年前に頼んだふるさと納税のお米を開封すらしていないのはなぜかと考えあぐね、ゼノブレイド2, 3はクリアしたがDEは序盤で止まってしまっているのは、然るべき手順を踏み外し雲海の下へと沈んでゆく私の将来を暗示しているのではないか、などなど。カーテンの洗濯に手を付けるとかのような不幸が四方八方から押し寄せてくるだろう。
とはいうものの、私とて全てがカーテンの如きというわけではない。歯は磨いているし、麦茶も沸かしている。爪は切るし、ふるさと納税も麦酒は飲み尽くしている。ここにきて悩ましいのがエアコンフィルターの掃除である。エアコンフィルターは掃除するものだとは理解しているが、実際にはここ2年は掃除をしていない。かといってエアコンフィルターを掃除する気はないと割り切れない程には衛生観念を持っている。
日々の暮らしの維持とは、ことによると歯磨きの領域の拡張である。カーテンの洗濯という高みに登るまでには、玄関の掃き掃除があり、革靴磨きがあり、エアコンフィルターの掃除がある。ふるさと納税のお米を毎年消費し、家計簿の月締めをきちんとする。でもね、カーテンにもエアコンフィルターにも手を付けられなくても、人間でいることは辛うじて維持して歯を磨いていこうなあと思うのが、本当のところです。