人生において一貫した価値判断の基準、あらゆる選択の道標となり命尽きるまでの導き手となる。
そんな基準を求めて日々悩んで「いた」、のか「いる」のかは未だ判断できずにいる。
おしまい森は、
「自己の内部に一人称での絶対的な価値判断の基準」・・・A
「Aがあれば人生にあらゆる対処、選択に迷わず、そして迷わないということは、充実・幸福(これらの定義は定まっておらず、主観的な漠然とした、強いていうなれば【あらゆる意味で自己否定に襲われない状態」を指す)への最短距離なのではないか」・・・B
Bという仮定に基づいてAを求める過程を記する意味で立ち上げた意見表明媒体である。
よってBを疑うことは本意ではないし、一般的な信仰はAを所与のものとしてかつBを疑わない(この場合個人に必要なのは、「疑わない」という一点のみである!)ことと比べると、生産的なことをしているのではないかと思って「いた」(「いる?」)。
しかしAを自己生成するにせよ、既存の価値観を受けいれるにせよ、今一度Bを疑い、「人生に迷いがない」とはどういうことか、その是非も含めて考えてみなければならない。
今の自分にこの命題を演繹的に議論する能力はない。帰納的議論は以下。
人生を疑似的に追跡すると一人称では、ある時刻で生を受け、肉体(超越的な意味は持たずハードウェアとして)と精神(超越的な意味は持たず、CPU、メモリ、ストレージとして)の盛衰を経て、そして途切れる。
よってAの価値観は普遍的なものである必要はない。ある個人の始点から終点までの方位磁針となればよく、その後北と南が入れ替わってもなんら影響はない。
*ただし現世とは別のある種の世界及び、死後にも現世と何らかの形で相互作用する価値観、この2点を棄却した前提の議論。
まず、主観的にAの価値観を信じ続けるという意味で、過去、現在、未来の自己が同一であるいう前提についてどう扱うかが議題である。現在の私が策定するAは過去の自己を肯定するべきかどうか。現在はどうか。未来はどうか。要するに、Aを過去への「慰め」に使うのか、未来への「指針」に用いるのか。はたまた現状机上の暇つぶしなのか。
–たぶん続く–